平成最後の9月(住居)

 7月には西日本を中心に広い範囲で記録された豪雨、8月には25年ぶりに「非常に強い」勢力で日本に上陸した台風第21号と、この夏は自然災害に見舞われたが、今月もまた災害が発生してしまった。9月6日に北海道胆振地方中東部を震源とした最大震度7の大地震である。最大震度7は北海道では初めて観測され、死者41人、住家の全壊394棟という大きな被害を被った。

 日本は地震大国であり、人々はいつの時代にも耐震性の優れた建築を志向してきた。平成23年(2011年)に東日本大震災が起きた後、耐震基準が見直されて、多くの建物が耐震補強工事を行ったこともその一端である。「いつ起こるか分からない」と言われ続けている首都直下地震はいまだ発生していないが、新元号の時代に入って起こってしまう可能性もある。災害の規模によっては、現在の首都圏の姿や人々の暮らしが一変してしまうかもしれない。無論、首都直下地震が起きないことを私たちは祈っているが、現在の安寧とした人々の暮らしと住まいについて今月は注目してみた。

さまざまな人が一つの建物に集まって暮らしている団地。

さまざまな形状や用途の建物が連なる住宅街。

 少し暑さが和らぎ、爽やかな風が吹くようになった9月の下旬、私たちは東京都内のとある団地地帯へ赴いた。この地区は都心から電車に乗って30分ほどで行くことができる好立地にあり、昭和40年代(1970年代)の団地ブームの頃には多くの家族が暮らしていたという。しかし近年の人口減少によって空き家が増え、また団地が老朽化したことも相まってゴーストタウンのようなありさまになりかけているという話を聞いたことがあった。駅前を歩き回ると、土曜日の昼過ぎとは思えないくらい辺りは閑散としていた。もしかしてゴーストタウンのうわさは本当だったのか。駅を出て、すぐそばの棟の白い外壁には汚れが所々目に付いた。間近で団地を見ると、電車の中から俯瞰して見た景色よりかなり古く見える。この棟の1階には電器店や精肉店があるが、駅前と同様に人気がない。電器店には見るからに旧式で年季の入ったエアコンが陳列されていて、到底売れそうもない代物に思えた。電器店の前はゴミ捨て場のようになっており、扇風機や室外機、バイクまでもが捨てられていて、この団地の物暗さを表すようであった。

 だが、最初の棟を通り抜けて団地の奥へ進んでいくと、団地に囲まれた中庭のようなスペースでは小学校高学年くらいの子どもや高齢者がのんびりとくつろいでいた。男子小学生の集団は携帯ゲーム機に夢中で、女子小学生たちはおしゃべりをしながら、ゲームをしている男子たちをチラチラと眺めている。そんな小学生たちをお年寄りたちは優しい視線で見つめていて、絵になりそうな平和な光景だ。都心と違って大人たちの目が行き届いている団地は近所付き合いが盛んであるがゆえに安全性が高そうだ。私たちのような部外者がうろついていると住民に警戒されてしまいそうだと感じる部分もあったが、取材のためにも棟の中に入ってみることにした。まず目に飛び込んでくるのは団地特有の鉄製ドアだ。私が小学生の頃、放課後に遊びに行った友人の家と同じ形状だ。そう言えば、幼稚園児の頃まで住んでいた昔の家のドアもこんな風な鉄製ドアだったことを思い出した。このドアは開け閉めの際にやたらと大きな音が響き渡ったことを子どもながらに覚えている。鉄製ドアであること以外にも団地の構造も関係があるのか、最上階の10階から撮影するとカメラのシャッター音が反響した。もしかすると私たちの話し声は部屋の中にいる住民に聞こえているかもしれない。10階の上には屋上があり、転落防止のフェンスが設置されていた。四方を見渡す限り、同じような形の団地に囲まれている人工的な風景はどこか非現実的で圧倒される。棟内では誰にも出会わず、人の気配を感じなかったが、外に出ると先ほど見かけた小学生たちとは別の小学生集団がバスケットボールに熱中している。私が小学生の時は放課後にサッカーやボール蹴りに興じていたが、現代の小学生たちも昔と変わらず外遊びをしているというのは意外な光景だった。今の子どもたちは携帯ゲームやスマートフォンで遊んでばかりいるというような先入観を持っていたが、この小学生たちが例外なのだろうか。

雑多な粗大ごみが広場の前に捨ててあった。住民の引っ越しが最近行われたのだろうか。

団地の敷地内は昼過ぎでも人影はまばらで、高齢者の姿が目立つ。

団地の屋上は広々としていたが、基本的には使用はできない。

団地に囲まれた中央広場では子どもたちが集まって遊んでいた。

 さらに団地の奥へと進むと公民館と図書館があり、その先は広場だ。広場の周りはスーパーマーケット、薬局、肉屋や八百屋がある商店街が囲っている。15時近くだったので、どの店舗も買い物をしに来た家族たちでごった返していた。団地の外には小売店があまりなさそうだったので、ここがこの団地一帯の台所の役割を果たしているのだろう。広場を抜けて団地の敷地の外へ出ると広大な公園が隣接している。この公園には野球場やテニスコート、バーベキュー広場まで備わっていて、団地に住む人々の憩いの場だ。駐車場はほぼ満車なので、遠方からやって来る人もいるだろう。テニスコートでは中高年の人々が気持ちよさそうに汗を流していて、原っぱでは親子がキャッチボールをしている。自然も豊かで、ゆったりと散歩もできそうだ。都心から少々離れているため、平日は通勤が辛いかもしれないが、休日はのんびりとリフレッシュできるこの地は非常に住みやすいのかもしれない。

 団地の敷地内を3時間ほど歩き回って感じたことは、最初に抱いた団地が寂れた住環境だという考えは短絡的かもしれないということだ。この団地にはまだ活気が残っていて、人がちゃんと暮らしている場所であることがよく分かった。しかし、棟の外観の老朽具合や外からでも目立つ空き部屋の存在が団地に対する悪いイメージをつくりあげているのだと思う。さらに、閉校となった小学校を見つけた時は団地の住民が減少していることもまた事実だと確信した。

敷地中央にある商店街では夕食前の買い物客の姿がたくさん見られた。

団地のすぐ近くにある自然豊かな公園はどの世代にとっても訪れやすい環境だろう。

都心部だとあまり見なくなった自家用車だが、この地域ではほとんどの家庭が所有しているのだろうか。

同じ形状の小中学校がいくつも立ち並ぶエリアがあり、廃校のおしらせが門に貼ってある校舎もあった。

 団地群から少し離れて首都高速道路を越えると、そこを境に街の様子が随分と変わった。ついさっきまでは画一的な団地に囲まれていたが、こちらは色も形も大きさも異なる多様な一戸建てが並んでいる。家ごとに外装が多彩なので、歩いていて目を楽しませられる風景だ。家の向きもバラバラに建っているため、日当たり問題に悩まされている家庭も中にはあるだろう。また、団地と違って家は道路に面しているため、車通りの激しさが顕著だ。土曜日の夕方でも数分おきに車が往来し、しかも家と家の間は狭いとなると、子どもたちが思いっきり体を動かして遊ぶ場所はあるのだろうか。一つの丁に少なくとも一つは公園があるが、住宅地の中の小さな公園なので、ボールが敷地から出ないように気を付けながら遊ぶしかないだろう。小学校低学年くらいの男女数人が公園でドッジボールをしていたが、団地で出会った子たちと比較すると、ボールが飛び出さないように気を遣いながら遊んでいるように見えた。先ほどたくさん眺めてきた団地は均一化された風景であり、もしかしたら住人たちの家庭環境も似ているのかもしれないが、多種多様な戸建てに住む人々の家庭環境はまさに十人十色であり、家庭の様子を外から推測するのは難しそうだ。各々の家庭が狭い空間に結集しているのに、決して群れてはいないように見える住宅街の光景は、団地の姿と大きな隔たりが存在するだろう。

住宅街に突如現れる狭い公園で遊ぶ子どもたち。保護者はベンチに座って遊ぶ子どもたちを見守っていた。

入り組んだ狭い路地の脇に建つ家でも車を所有する家がいくつもあった。路上に人影はほとんどない。

 今月は平成時代における都市部で暮らす人々の生活と住居に着目して取材を行い、気付かされたのは住まいに対する価値観の変化だった。団地がゴーストタウンであるという巷間のうわさが根も葉もないことをこの目で確かめたが、それでも老朽化と人口減少の波は確かに感じ取った。では、なぜ団地の需要が低下したのだろうか。団地に住むことは一戸建てやマンション住まいと比べて経済的負担が軽く、隣近所との人間関係が物理的にも精神的にも近いので相互に協力し合える。また、地域社会との密接なつながりによって、たくさんの大人の視線に見守られながら子どもたちは広い場所でスポーツができる。さらに、子育て世帯が抱える待機児童問題についても、高層マンションが乱立する地域と比較して少ないはずで、夫婦とも働いている家族にとって生活しやすい環境だと想像できる。このように独特の強みがあるにも関わらず、団地に住みたいと思う人が近年減少している理由は、人々の住まいに対する考え方が変化してきているからだと私たちは推測する。団地ブームに沸いた昭和40年から50年ころは隣人や近所の人と助け合う人間関係が当たり前だったのではないか。他人の家の子でも悪いことをしたら怒ってくれる「親切な」おじさんやおばさんが周囲にたくさんいた。私が小学生の時も見知らぬおばさんに私のいたずらをとがめられた経験がある。だが、平成時代になると、核家族の他にも、単身世帯が増大したことで、近所付き合いを必要としない人や相互協力を煩わしく思う人が際立つようになった。また、騒音おばさんやごみ屋敷問題など隣人間でのトラブルが広く報道されたことで、周囲との関わりを絶つ人々が一層増えた。かつて「親切な」近所の人たちが、よく知らないけど「危なそうな」おじさんやうるさくて「おせっかいな」おばさんに変わってしまったのである。団地に住むということは自分たちの生活が良くも悪くも周りに見られているということだ。昭和から平成初期までは、見られている側の意識は「見守られている」だったのが、平成中期には「監視されている」へと変質して、一戸建てやマンションのように他者から独立した住居に住みたいと思う人が主流になったと推察する。

 上述の仮説の通り、今回の取材では団地の衰えをこの目で確かめて、都市で暮らす多くの人々が隣人とのつながりを絶った一人暮らしや家族水入らずの穏やかな暮らしを望んでいるのではと感じた。同時に、平成時代の暮らしの在り方に内在する問題が垣間見えたのかもしれない。一戸建てやマンションに住む人々の生活の中で人間関係が希薄化して、子どもたちの安全な遊び場の減少や共働き世帯の待機児童という問題が生じている。しかし、都市部に住んでいても団地に住む人々のように他人と交わることで、多様な社会問題が決着するかもしれない。平成の次の時代に人々の暮らしがどう変容するか予想が全くできないが、前時代の遺産ともいえる「温かみのある人間関係」の再興についてより深く検討してみてもよいのではないだろうか。

団地に住む人々は平成30年の間で高齢化が進んだことが周辺環境からも見て取れた。

路上で人だかりができていたので近付いてみると、話題の位置情報ゲームアプリにみんな夢中だった。

親子でペットの散歩をしながら家に帰る家族の姿。

人の生き方が多様化したこの時代、街の風景は今後どう変わっていくのだろうか。

 

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