平成最後の11月(学校)

 11月に入って街中の木々が赤や黄色に色付き始めた。冷たい風が頬に突き刺さり、冬の足音が着々と近づいていることを実感する。しかし、私たちが今月スポットを当てることに決めた学校は、年中熱気あふれる場所である。学校では授業だけでなく、さまざまな学校行事も教育課程に含まれていて、特に秋は色んなイベントが目白押しだ。私たち学校に通っていた頃も秋になると運動会や文化祭、合唱コンクールなど行事の準備や練習に明け暮れていた。授業よりも行事の練習の方が楽しかったためか、毎年秋はあっという間に過ぎ去っていった気がする。私たちが学校に訪れたのは11月下旬だったため文化祭や大学祭はすでに終わっていたが、平日だったので子どもたちの元気な声が辺り一面に響き渡っていた。子どもたちの歓声を聞くと自分が小学校、中学校、高校、そして大学に通っていた頃の思い出がとめどなくよみがえる。いずれの学校でも楽しかった記憶も、辛かった記憶もたくさん思い浮かぶが、合計で16年間も通い、人生の若い時代のほとんどを学校生活が占めていることを考えると、日本の子どもたちにとって学校とは極めて大きな存在である。平成最後の11月である今月は、学校が平成30年の間にどう変化したのか、私たち自身の記憶を回想しながら記録していきたい。

学内行事などを知らせる掲示板にはさまざまな掲示物がたくさん貼られている。

大学構内の様子。大学の建屋も時代性が現れるのだろうか。

 私たちが訪れたのは、都内の某国立大学とその附属小学校・中学校、そして私立高校である。まず大学の構内に入って、のんびり散策してみた。私たちの出身大学は狭い敷地にいくつかの校舎が林立していて、都心のいわゆるビルキャンパスだったため、緑が豊富で広大な敷地の中をゆったりと過ごせるのがうらやましい。この日はそれほど寒くもなく、外のベンチに座っておしゃべりに興じている学生を何人も見かけた。大学生たちはどうして何時間も飽きずに話せるのだろう。話題が尽きて沈黙が生まれないのだろうか、などと考えてみたが、私たちが学生だった時もサークルやバイト、女の子のことなど、くだらないことをいつまでも話していた。学生ホールの中に入ると、ここも談笑している学生ばかりだ。学生ホールには食堂も備わっていて、昼食を取りながら話している学生もいる。食べ終わったのにいつまでも食器を返さない学生は、食堂のおばちゃんに怒られてしまうのではといらぬ心配をしてしまった。学生ホールの隣に建つ部室棟は遠くからでも目立つほど歴史のある建物だ。中は汗臭い匂いがほのかに漂い、話し声と歌声と楽器の音が混ざり合うやかましい空間だが、自分の学生時代を思い出して不思議と気持ちが落ち着いてくる。楽器ケースやロッカーにはほこりが被り、大学祭のビラが床に散乱していて、初めて来る人は足を踏み入れたくないと思いそうだが、この雰囲気に慣れるとむしろ居心地よく感じ、卒業して後から回想したときに懐かしくなる青春の場ではないだろうか。高校時代の部活動の部室や大学時代の楽器倉庫も整理整頓された部屋とは言い難かったが、なぜかくつろげる場所であり、いまだに部室や倉庫の話で友人たちと盛り上がる。部室棟を出ると、ちょうど授業が終わった時間で、中庭にはたくさんの学生が行き来していた。次の授業教室に向かっていたり、友だちとおしゃべりしながら帰路に向かっていたりと学生によってさまざまだが、みんなの手にはスマートフォンを持っている。中庭を離れて、この大学で一番大きな食堂へ入ってみると、こちらでも学生たちはスマートフォンを片手に談笑したり、食事をしたりしている。中にはスマートフォンを左手で持ちながら右手でスプーンを持ってカレーを食べて、さらに友人とおしゃべりしている器用な女子学生も発見した。話し相手に随分と失礼な態度だと思ったら、相手の学生も全く同じ姿だったのには驚いた。食堂では課題のレポートを作成している学生も見られたが、それはごく一部だけで多くの学生は自由な時間を満喫していた。講義棟でも同じように、授業やゼミナールを行っている教室以外では、会議をしているサークル団体や雑談にふける男子学生たちを見かけた。大学とは最高学府として、すばらしい教育環境が用意されているが、多くの識者から指摘されているようにわが国の学生にとっては社会に出る前にモラトリアムを堪能する場なのだろう。昭和時代の大学生たちは、盛んに学生運動に参加していたが、彼らが勤勉な学生だったという印象はない。平成時代の大学生たちは昭和と比較して、強烈な主義主張を持っている風には見えないが、かといって勉学に励んでいる様子もなかった。こんなに偉そうなことを書いておきながら、私自身、授業に出席せずとも単位をちゃんと修得すれば問題ないと考える不真面目な学生だった。いつの時代においても日本の大学生たちは自由を満喫できる特権を与えられた存在なのだろう。

食堂内ではスマートフォンを片手に会話する学生の姿があちこちで見られた。

学祭のイベント看板を構内に作っている学生。

隣接する附属小・中学生と違って、大学生は私服で授業に向かう。

大学の講義が行われている建屋。

 大学の次は隣接する小学校と中学校へ向かった。大学と同様に、小学校と中学校でも現在の教育現場の様子を知りたかったので敷地の内部に入りたかったが、校門前の看板には「関係者以外立入禁止」と書かれていて断念した。おそらく、昭和時代から平成時代初期くらいまで学校は今よりもずっと地域に開かれていたはずだ。だが平成13年(2001年)6月に大阪教育大学附属池田小学校で発生した小学生無差別殺傷事件によって、安全を重視する閉ざされた学校へと変容した。事件当時、小学生だった私も大きな衝撃を受け、親や先生たちがとてもおびえたり、警備員が急に校内を巡回したりと物々しい雰囲気だったことを覚えている。事件への反省から、今も部外者が学校に立ち入ることを固く禁じていて、私たちも外から様子をうかがうことしかできないのは歯がゆい限りだが、この事件が社会に与えた影響力を考えると当然かもしれない。校内へ入ることを諦めて、外から小学校の中をのぞいてみたが、15時を過ぎていたせいか校庭には誰も残っていないようだ。私が小学生だった時は、放課後になると学校に再集合して、サッカーやゲームボーイアドバンスで遊んでいたが、この小学校は放課後には開放していないのかもしれない。だが、小学校の周りを歩いていると、帰宅途中に道草を食いながら傘を振り回して遊んでいる男の子2人と女の子1人の組み合わせや、みんなで縄跳びをしている男子児童の集団を見つけた。校内が閉ざされて遊べなくなっても、容易に別の遊び場を創ることができる小学生たちの発想は天性のものだ。また、近くの公園では小学生と大学生が一緒に野球をしているほほえましい光景に遭遇した。子どもたちの安全を守るためには、防犯カメラだけでなく、地域の人々と協力して見守ることも大切だろう。

中学校の校舎はデザイン性が富んだ大学の建屋と異なり、画一的な構造だ。

下校した小学生たちは大学の敷地内にある原っぱに集まって遊んでいた。

子どもたちが外遊びができる敷地内の遊び場。

小学生と大学生が一緒に野球を楽しんでいる様子。

 小学校を一回りした後、すぐ隣の中学校へ向かった。こちらも「関係者以外立入禁止」の看板が正門に掛かっている。私たちが到着した時はちょうど掃除の時間で、たくさんの中学生たちが正門前の歩道をほうきで掃いていた。男子はじゃれ合ったり、ほうきを振り回して野球をしたりしている中、女子は黙々と落ち葉を拾い集めている。女子が掃除をしている場所はどんどんきれいになっていくのに男子のところはいつまで経っても落ち葉だらけなのが面白い。どういうわけか男子中学生はわずか20分ほどでも掃除の時間に集中できないようで、私自身も「サボっていないで掃除をしなさい」と先生や女子によく怒られていた。やがて、中学生たちは教室へ戻り、16時になると一斉に下校し始めた。中学生になると、小学生と違って男女別々に帰り、それぞれ好きな話に花が咲いている。男子たちは大きな声で相撲の話を熱く語り合い、女子たちはひそひそ声で何かの内緒話をしていた。こっそりと2人だけで帰ろうとしている男女がいたが、友だちにすぐさま見つかってしまい、さんざん冷やかされているのも私が中学生の頃と全く変わっていない。懐かしい思いで彼らをぼんやり見つめていると、何人かの女子生徒がいぶかしげな目で私たちを観察していた。確かに、中学校の正門前に用もなく30分も立っている20代の男性2人組は少々怪しいだろう。通報されたり、先生を呼びに行かれたりしても説明が面倒なのですぐさま立ち去ったが、学校とは警戒心が強くて閉鎖的な環境だと改めて思い知った。

 この日の最後は中学校から徒歩で10分ほどの場所に立地する私立高校へ行った。スマートフォンの「Google マップ」を見ながら近くまでたどり着くと、高さが2メートル以上もある塀や鉄柵に囲まれていて、中の様子が全く分からなかった。小学校や中学校と同じく安全管理の一環だろうが、私立であるためか、より厳しく警戒している。公立ではなく、あえて私立に通わせている息子や娘に万が一のことがあれば保護者は高校を強く非難すると予想されるため、致し方のない措置かもしれないが、これほどまで外部の人間を拒んでいるとは思わず仰天した。高校の周りをぐるっと周って、ほんの少しだけ内部の様子が見える場所を発見した。17時を過ぎているため、授業は終わっているようだが、野球部とテニス部が熱心に練習していた。ゆっくりと日が落ちていく中、いつまで練習を続けるのか眺めていたが、寒くなってきて私たちの方が先に音を上げた。高校生たちの忍耐力に感心したが、高校時代の自分も週に6日は部活動をしていた記憶がすぐによみがえる。私たちは2人とも運動部に所属していたため、高校時代のほとんどを部活動に費やしていたが、なぜ大変なのに3年間続けられたのか、今思うと謎である。自分がやりたくて入部した部活動なのにだんだんとやる気が低下して、強制されているわけではないのに誰かにやらされている気分へと変わっていった。無論、好きで部活動をしている生徒も多いだろうが、一度入部すると退部しにくい雰囲気が醸成される部活動は、いじめ問題の温床になるなど時には弊害を伴うこともある。また、校外のクラブ活動と異なり、顧問となる教員の負担が非常に重いため、新しい時代には中学校や高校から部活動が消滅しているかもしれない。

中学校の部室の風景。

広々とした校舎とグラウンド。

掃除が終わって教室に戻る女子中学生たち。

男子中学生たちは集まって談笑しながら掃除を行っていた。

 平成最後の11月は現在の学校の状況を記録していき最も印象的だったのは、地域社会とのつながりの希薄さと児童・生徒たちへの徹底した管理のありようである。前述のように平成13年(2001年)の小学生無差別殺傷事件によって、かつては比較的自由に学校へ立ち入ることができたが、事件以降は気軽に学校へ入ることができなくなってしまった。卒業生であっても、まず事務室などで所定の手続きを踏まなくては母校を訪ねることができない世の中である。安全管理上、可能な限り外部の人を排除することを世論は求めているが、学校という人的・物的資源が豊富な環境や次世代の科学技術をもっと活かして、地域社会と連携できる仕組みを創ることができないだろうか。地域の人々との関係が希薄化していることを感じた平成時代であるが、学校を中心としたコミュニティを新しく創出していくことで、次の時代では無機質な鉄柵や監視カメラが不要になるかもしれない。

 また、私たちの時代の大学を除く教育課程は時間や校則に強く支配されていることを思い出した。小学校に入学すると、クラスごとに時間割が決まっていて、全員がそのスケジュール通りに6年間を過ごす。そして定められた規則を逸脱した児童は先生に叱られる。この画一的な学校生活は小学校を卒業した後も当然維持されて、さらに中学校や高校ではより支配性の高い部活動が出現する。こうした規則管理と密接に結びついた児童・生徒たちの行動生活様式の特殊性を今回の取材を通じて改めて感じた。一方で、高校までは先生の考える「正解」が常に正しかったが、大学へ入学すると「正解」を自分自身で自由に決めることになった。入学していきなり自由を手にして最初は戸惑ったが、初めてつかんだ自由に強い喜びを感じた。同時に、自由の裏には責任もつきまとっていることも実感したのである。私たちは大学4年間において自由を満喫したと自負しているが、突然与えられた自由になじめず、無為な時間を過ごした学生もいるかもしれない。自由の本質を理解せず無責任な行動を繰り返して、社会に出た学生も中にはいるだろう。大学と、それ以前の教育のこうした差異の大きさは、平成までに学生時代を過ごした世代にとって特有の記憶となるのかもしれない。今月、振り返ってみた平成時代独特の教育の在り方も時代の移ろいとともに段々と変わっていくことだろう。新時代の子どもたちが将来この記事を読んだときに教育課程の在り方の変化に驚くことになるなら面白いと思う。

大学生たちは勉強以外のサークル活動や歓談でも学内で時間を過ごしている様子が見られた。

校内を自転車で移動する女性の姿。学びと社会の関係性はこれからどうなっていくのだろうか。

 

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