春は古くから出会いと別れの季節と呼ばれ、新年度が待ち遠しく感じながらも、漠然とした不安も同時に抱える複雑な時期だ。3月になると心が浮足立って春の訪れを意識するようになるが、平成23年(2011年)以降は東日本大震災の記憶を思い起こすようになった。あの年の3月11日2時46分に地震が発生し、その後のテレビ番組ではいずれの局も地震の被害をつぶさに報道していた。釜石市の住宅が津波に飲み込まれ、市原市では火災によってコンビナートが爆発し、気仙沼市では津波の二次災害のため市街が火の海と化す映像が矢継ぎ早に放映され、あまりにも非日常的すぎてテレビの光景が信じられなくなったことを覚えている。翌朝には岩手県、宮城県、福島県を襲った津波が何度も映し出され、午後に福島第一原子力発電所一号機で爆発が発生してからは、どの番組も原発一色となり、国民のほとんどが対応を注視したはずだ。日本の原発で初の炉心溶解が起き、避難区域が拡大する頃にはベクレル、シーベルト、セシウムといった聞きなれない用語を耳にするようになった。そして、一号機に続いて三号機、二号機も炉心溶解が起きて、放射性物質が放出された。震災から1週間後には大気中の放射線量のことばかりが報じられ、放射性物質が含まれているという風評によって、福島県産の米や野菜など農水産物の売り上げが落ち込んだ。さらに、インターネット上の流言飛語によって福島県から避難してきた子どもがいじめに遭ったり、福島県出身者の結婚が破談になったりしたそうだ。震災から2カ月を過ぎたころには福島の報道が目に見えて少なくなり、翌年以降は私たちも毎年3月11日前後のみ震災当時の様子を思い出したり、福島の今に思いをはせたりする程度だった。しかし、震災から8年が経つ現在でも福島第一原子力発電所に近い市町村は帰還困難区域であるため、今なお震災前の暮らしに戻ることはできない。そうした現状は年々報じられなくなりつつあり、インターネットで検索しても情報があまり出てこないため、福島の様子を正確に把握することは難しい。平成最後の3月を迎え、当時の被災地が今どうなっているのかとても気になる私たちは、現在の福島を平成最後の日本の現状として自分たちの目で確かめ、平成30年間で最悪だったこの未曽有の大災害を記録したいと思い現地へ赴いた。
3月10日の朝、私たちは福島県いわき市へ向かった。いわき駅前では脱原発を掲げる市民団体がビラを配っていた。首都圏の駅では珍しい光景をいわき駅で見かけたことで、福島県内では原発問題が今なお身近であることを改めて気付かされた。しかし、ビラを配布している脱原発団体数人の存在を除けば、人々が行き交うだけのありふれた風景で他の街と全く変わらない。電車に乗って出かけようとしている若い男性や大学生くらいの女性2人組、車に乗って買い物へ行く家族、のんびりと散歩する年配の女性たちなど、日本中のどこでも見られる街の姿だ。8年前の震災では、いわき市では多くの家屋が倒壊したり、市の一部が津波に飲み込まれたりしたが、当時の被災状況を知らない世代からすると、この街が被災したことを想像できないのではないか。そう思ってしまうくらいいわき市は復興が進んだ街だった。
いわき市から国道6号を北上していくと、広野町あたりまでは民家や飲食チェーン店などが並んでいて、よくある地方都市の風景だ。6号の右側は海が広がっていて、地元の魚を使った海鮮料理屋もいくつか見られた。しかし、「Jヴィレッジ」を越えた先から車の数が減少し、人が住まなくなった廃屋らしき建物が少しずつ増えてきた。そして帰還困難区域のすぐ手前に位置する常磐線富岡駅に着くと、怖いくらい人影がなくなった。駅前には広々とした無料駐車場があるが、工事車両らしき油圧ショベルが何台も停まっているばかりで、私たちと同じような車は全くない。バスロータリーも閑散としていて、列車代行バスが1日に5便だけ走るのみだ。駅のすぐ脇にはコンビニと小さな飲食店があって店員がいたため、久しぶりに人の姿を見つけた。改札をくぐり抜けると、ホームを隔てて向かいの土地は広大な更地になっている。更地の先には海が広がっているので、東日本大震災の時の津波で流されてから今日までずっと再建されなかったのだろう。富岡町を襲った21メートルの津波は駅の向こう側の土地ばかりか駅舎まで飲み込んだそうだ。駅舎の中には放射線量計が設置されていて、放射線量計は毎時0.061マイクロシーベルトを指していた。原発事故の後に政府が定めた除染基準は毎時0.23マイクロシーベルトなので基準値は下回っている。富岡駅には一時間くらい滞在したが相変わらず人の姿はほとんど見当たらなかった。
駅を後にして富岡町の内部を見てみようと思い、現在は休校している福島県立富岡高校に行ってみた。富岡高校はサッカーやバドミントンに力を注いでいて、著名な選手を数多く輩出した。校門へ回ってみると様々な部活動の華々しい活躍を祝う看板がいくつも立っている。サッカー部、バドミントン部、ゴルフ部、チアリーディング部など10枚以上の看板が立てられているが、どれも平成22年度(2010年度)の記録だった。この看板は震災前に立てられて、原発事故の影響で富岡高校が立ち入り禁止になってから8年間変わらぬ状態なのである。この看板を見て、この街が震災以来ずっと時が止まっていることに今更ながら気付き、背筋が凍りそうな心地になった。高校の脇の空き地には折れ曲がった道路標識や古い材木が置きっぱなしになっていた。
次は道中で見つけた商業施設「さくらモールとみおか」へ行ってみた。この商業施設は平成29年の避難指示解除後にオープンし、スーパーマーケット、フードコート、ドラッグストアなど複数のテナントが営業している。中に入ってみると、想像以上に多くの家族連れや高齢の夫婦が買い物をしていた。恐らく富岡町で唯一の大型商業施設なので、たくさんの町民が利用しているはずである。開業して1年後の福島民友新聞の記事によると、この商業施設には町民だけでなく作業員や周辺住民も訪れ、1年間で70万人以上の利用者がいたそうだ。もしかすると、さくらモールとみおかは富岡町復興の旗手として、町民の帰還を促進する可能性を秘めているかもしれない。
さくらモールとみおかを出た後は、向いに建つ「東京電力廃炉資料館」へ入った。この資料館はもともと福島第二原子力発電所のPR施設「エネルギー館」だったが、原発事故の記録と廃炉事業の紹介施設として平成30年(2018年)にオープンした。受付では顔に疲労感をにじませた初老の男性から資料を受け取った。この資料館のスタッフは来館者対応の矢面に立たされているため、時には辛く当たられることもあるだろうと思い気の毒に感じてしまった。2階へ上がると、事故の記録が分かりやすくまとめられていて、特にシアタールームで見られる事故当時の対応に焦点を当てた映像は臨場感あふれる内容だった。震災当時、東京電力の社員が原発内で対応している生々しい映像はテレビで放映されておらず、この日に見たのが初めてだったので目を奪われた。1階は東京電力による廃炉作業中の現状を紹介していて、専門的な事柄が多かったが観光客にも理解しやすい内容だった。また、コミュニケーションスペースには福島の復興への取り組みや被災した各地の状況を発信していた。インターネット上ではこれらの情報をほとんど発見できなかったが、この資料館ではローカル情報が多く集約されているため、原発周辺の今の様子を詳しく知ることができる。この資料館では原発とその周辺地域の最新情報をたくさん保持していているが、残念な点は発信力が弱いため、情報量が多いという特長を活かしきれていないことだ。河北新報によると、開館して1年間で5万人が来館したそうだが、そのうちの3割が視察した際の立ち寄り、1割が東京電力の社員なので、私たちのような旅行者はまだまだ少ない。この資料館の存在意義は賛否両論あるだろうが、実際に足を運ぶことで原発周辺地域の現在を知ることができる。
午前中に通った国道6号を戻り、途中で左折して県道に入ると、除染作業用トラックばかりとすれ違うようになった。ふと看板を見ると福島第二原子力発電所の入り口が書いてあったので、近くまで進んでみた。原発の入り口に立つと、クッションドラムで遮られていて敷地中には入れない。すぐ脇には「警備強化中」と書かれた大きな看板が設置されていて、その奥には守衛所も置かれていた。事前に取材許可を取っていないので中に入ることは諦めたが、関係者以外の立ち入りを一切認めない強い意志を感じる雰囲気だった。部外者がむやみに立ち入ることで重大な事故が起こらないよう厳重に警戒しているのだろうが、廃炉作業を外部には見せないようしている一面もまた感じ取った。
富岡町をほぼ半日巡り、次の目的地である浪江町を目指した。富岡町と同様、浪江町も町の大部分が帰還困難区域であり、多くの町民は他の市町村へ避難しているそうだ。富岡町から浪江町へ向かうためには国道6号を北上するのが最も近いが、途中の帰還困難区域内では駐停車や国道以外の道の立ち入りは制限されていて、自動車のみが通行できる。国道6号に入る前に、帰還困難区域のすぐ手前まで行き、車から降りてみた。帰還困難区域との境界はガードレールとコーンバーによって立ち入りができないようになっている。境界の向こう側は冬枯れの草原といくつかの民家があるが、区域内部には誰一人として人が住んでいないのだろう。境界ぎりぎりの場所に民家があり、その前を通ると住民と思われる中年男性がたき火をしていた。彼はいぶかしげな眼で私たちをにらみつけ、明らかに警戒している様子だった。被災地の最前線で今も暮らしている人にとっては観光気分でやってくる人々に対する感情はよくないだろう。彼の憎々しげな眼でにらんでいた姿が私たちの脳裏に焼き付いている。国道6号を走行し始めると、左右の道へは一切立ち入ることがないようにバリケードやフェンスが至るところに設置されていて、前に進む以外の選択肢は存在しない。コンビニエンスストア、ガソリンスタンド、ペットショップなど現在も建物が残っている店舗をいくつか通り過ぎたが、当然誰もいなくて荒れ果てている。立地条件の良い国道沿いに建っているため震災前までは利用客が多かっただろうが、今は忘れ去られたかのようにぽつんと取り残されていた。福島第一原子力発電所に最も近い大熊町と双葉町付近には放射線量計が設置されていて、この日の放射線量は毎時2.139マイクロシーベルトであり、除染基準値を大幅に超えている。その先へ進むと、驚いたことに50メートルほど先にイノシシが道路を悠々と横切っていた。私たちの車が近付くと雑草が伸びている道端の草地へ逃げて行った。さらに北上して帰還困難区域を抜けると浪江町の中心部に入ったが、大熊町や双葉町と同様に人が暮らしている気配は感じられない。駅の周りには報道関係者と思われる人々が10組ほどいるが、地元の人らしき姿は見当たらない。改札内も富岡駅と同様にがらんとしている。浪江駅は津波の被害を受けなかったが、帰還困難区域内である富岡・浪江間の不通により、今もまだ1日に10本ほどの仙台方面行き列車しか運行していないため利用者が少ないのだろう。使われていないホームの両脇には緑のバリケードが隙間なく置かれていて、ホームの復旧工事がまだ完了していないことは明白だ。駅を出て近くを歩き回ると、倒れたまま放置されているブロック塀、アンテナが折れて屋根の上に転がっている木造住宅、店内の器具が現在も散乱している美容室など、この街も時が止まっている空間に囲まれていた。また少し歩くと、公園と学校を発見した。公園にはいくつか遊具が設置されているが、浪江町の子どもたちがここで遊んでいる光景は浮かんでこない。学校の校庭には放射線量計があり、毎時0.116マイクロシーベルトだった。富岡町よりも福島第一原子力発電所に近いため、放射線量も高いようだが除染基準値は超えていない。それでも通りには人っ子一人存在せず、駅前通り沿いの建物の多くは傷みながら辛うじて建っていた。
浪江駅を出発した頃には日が暮れ始めていたので、本日の宿泊地である福島市へ向かった。浪江町から田村市までは山道だったので住居や店がほとんどない殺風景な車窓だったが、川俣町に入ると住宅地と緑地が混在する風景に変化した。そして、福島市に入るとスーパーマーケットや飲食店が出現して、工事関係車両はほとんど見なくなり、代わりに普通乗用車が行き交うようになった。つい2時間前に見て回っていた浪江町の風景とは完全に別物であり、福島市からは被災の痕跡が感じられることはなかった。宿泊先に荷物を置き、福島駅近くの大衆居酒屋で夕食を取ったが、都内と全く変わらず活気ある雰囲気で、被災した福島県に滞在していることを忘れてしまいそうだった。
旅の2日目である3月11日は福島市郊外にある土湯温泉へ向かった。土湯温泉は福島駅から車で30分の好立地にあり、こけし発祥の地として有名だ。しかし、宿泊客は平成4年(1992年)の42万人をピークにだんだんと減少していき、平成22年(2010年)には27万人まで落ち込んだ。さらに東日本大震災が起きると、原発事故の風評被害が原因で客足が激減してしまった。私たちが訪れたのは平日の午前中で、そもそも観光客が少ない時間帯のため現在の正確な状況を確かめることができなかったが、少々静かな雰囲気の温泉街を見る限り、まだ震災前の勢いに戻ったとは言い難かった。震災前に訪れていた観光客を取り戻すため、土湯温泉では温泉熱を利用したバイナリー発電所や発電後の温泉熱水を二次利用したオニテナガエビ養殖施設を稼働させるなど、旅行客を呼び込むために様々な工夫をしているそうだ。土湯温泉はいわれなき風評被害により、地震よりもうわさという二次災害に今も苦しんでいる。県庁所在地である福島市内に位置しながらも、福島駅周辺とはだいぶ異なり、現在進行形で復興事業に取り組んでいることが印象的だった。
土湯温泉から福島駅へ戻り、「とうほう・みんなの文化センター」で午後から開催される「東日本大震災追悼復興祈念式」に出席した。式の前半は東京で開かれている国主催の「東日本大震災八周年追悼式」からの中継によって、黙とうや安倍首相の粛々と式辞が行われた。式の後半では県知事と県議会議長からの言葉の後に遺族代表として相馬市出身の五十嵐ひで子さんが述べられた。式が終わると一般献花が行えたので私たちも短い列に並んで献花した。献花の列を見て気付いたのは、参列者のほとんどが高齢者で私たちのような20代や子どもの姿はまれだ。また、後日発表された参列者数は全部で390名だったが、そのうちの240名は県庁の幹部職員や国会議員たちなどの来賓だった。式に参列する人の半数以上は来賓であり、一般参列者も高齢者が大部分だと若い次世代の人々に対して、この震災の悲しい記憶がきちんと伝わらずにいつか途絶えてしまうかもしれないと感じた。40代より下の世代の姿は会場で少数派だったが、彼らは震災当時のことや復興しつつある現在について、どのような考えを持っているのだろうか。
式が終了してから福島市を出発し、キャンドルナイトが行われるいわき市平中央公園へ向かった。公園へ入ると、キャンドルナイトの参加者たちは式の参列者と年齢層が全然違うことにすぐ気が付く。参加者の中には高齢者もいるが、大半は40代前後で子どもを連れた家族だ。親子で一緒に作るキャンドルのカップには復興への思いを記入することができ、かわいらしい絵を添えた力強いメッセージや福島を応援する長い文章など復興への思いは十人十色だ。どんなことを書くか親子で仲良く話し合っている姿を見ていると、みんな福島の復興を心から願っていることが伝わってきた。キャンドルは公園内の野原に置いていくと「3.11」の文字が完成して、日が暮れて暗くなると闇の中から文字が浮かび上がるようになる。一つ一つのキャンドルは小さなともしびだが、いくつも集まると大きな明かりになる幻想的な光景は、個々の小さな復興支援をつなぐことで福島県全体が再生することを意味しているように私は感じた。家族や親しい友人とともにキャンドルをともして静かにしのぶのは震災の記憶を次代へ紡いでいるからなのかもしれない。
キャンドルナイトを見学した後、いわき駅から都内へ戻り私たちの二日間の旅は終了した。この二日間、東京では決して見ることができない被災地の風景をいくつも見て、中央と地方の対立である「都鄙構造」が福島県内にも存在することを痛感した。福島県内で中央側の都市は福島市やいわき市が該当する。これらの市は地震や津波の被害は受けたものの、復興はほぼ完了していると言えるだろう。街の雰囲気は日本のどの地方に存在する一地方都市と変わらず、人口減少や高齢化などの問題を抱えている点も同じだ。唯一異なるのは3月11日前後に追悼祈念式やキャンドルナイトといったイベントを開催していることくらいだろう。8年前に被災したとはいえ、今はその面影も少なくなり、再生に向けて前進している福島市やいわき市は、他県からいつまでも「被災した地域」という目で見られたくはないのではないか。マスコミから「被災した県」とひとくくりされることに反発し、安全な街であることを積極的に発信している街は土湯温泉だけではないはずだ。
こうした都市に対して遅れをとっているのは富岡町や浪江町を始めとする帰還困難区域である。これらの街は震災から8年が経った今も高い放射線量のため様々な制限がかけられていて、住民が以前と同じように暮らすのは難しい。人が住まなくなると土地は荒れ、住居は朽ち、野生動物がうろつくようになる。いつか帰還困難区域が解除されたとしても、かつての住民が戻ってくる風景は想像しにくい。そんな暗い未来にならないために帰還困難区域が解除され次第、すぐに住民が帰ってこられるための施策を検討することが自治体の最優先事項だと考える。日本の多くの自治体において、人口の流入促進と流出阻止が課題になっているが、帰還困難区域の市町村はより魅力的な施策を打ち出さなければ、首都圏ばかりか県内の都市との格差がますます広がってしまうかもしれないことを危惧している。
また、今回の旅で気付いたもう一つの点は、原発周辺が一様に放射線量の高い地域ではないということだ。帰還困難区域内では除染基準値を上回っていたが、富岡駅や浪江駅など区域のすぐ手前は基準値を下回っていた。基準値より低くて、人体への影響はほとんどないはずだが、インターネットやテレビなどで危険をあおって報道された結果、福島が過度に危険な場所だと見なされてしまったのかもしれない。私たちのように福島から離れて暮らしている人こそマスコミやインターネットの情報の一部だけを信じるのではなく、自分の目で現状を確かめてから情報を発信しなければいけない。今もまだ原発周辺地域において、昔のような生活に戻ることができないのは、誰かの思い込みによるうかつな一言がデマとなり、風評被害が生じているからなのではないか。そう思ってしまうくらい、震災当時に報道されていた情報をもとに作り出した被災地のイメージと私たちが見た平成最後の福島の様子は大きくかけ離れていた。
平成23年(2011)年からゆっくりと、しかし着実に福島の市町村は復興しているが、次の時代では「時間が止まっている街」から「復興を遂げた奇跡の街」へと生まれ変わることが果たしてできるだろうか。たった二日間だけだが、福島の人々が風評被害に負けず、復興のために奮闘する姿を見た私たちは、新時代で浜通り地域が本当の意味で復興することを切に願う。
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