平成最後の4月(最終日)

 平成31年(2019年)4月1日午前11時半過ぎ、新元号が「令和」とすることを菅官房長官が記者会見で発表した。前回の改元時は昭和天皇の崩御直後だったため慌ただしく、厳かな雰囲気だったようだが、今回は即位1カ月前である4月1日に新元号を公表することを1月4日の年頭記者会見で安倍首相が語ったため、国全体で数カ月前からずっと待ち望んでいた。新元号が発表される瞬間はテレビ各局がこぞって生中継して、その直後に新聞各社が配布した号外は数分でなくなるほど人気だったそうだ。私自身もこの貴重な瞬間を職場のテレビで見届けて、上司や同僚と新元号への感想を語り合った。夜のテレビ番組でも記者会見の映像や令和の名前の由来などが幾度となく報じられ、それから数日間の新聞記事やネットニュースでもたびたび登場した。改元は一生の間にそう何度も立ち会えるわけではないため、4月1日は多くの日本人の心を高ぶらせた一日だったのではないだろうか。この日以降も5月1日の改元に向けて今上天皇の退位や平成30年間の回顧録などが日々報道され、日本全体で平成の終焉を惜しんでいるかのようだった。私たちは1年前の平成30年(2018年)5月からすでに平成末期の今を記録し続けてきたこともあり、平成が終わってしまうことへの寂しさは募るばかりである。人々のこの時代に対する思いが最高潮に達するであろう平成最終日である4月30日において、人々はどのような一日を過ごすのだろうか。今月は平成最後の日の様子を取材して、1年間記事を作成し続けてきた本記録の集大成としたい。

国旗が掲揚された銀座の街路。

雨の中、人だかりとなっっていた皇居前広場。

 4月30日の午前中、私たちは最初に永田町を訪れた。国家中枢機能が集中する永田町においては、今日という日をどう迎えているのだろうか。整然とした通りに立ち並ぶ国家機関のうち、私たちでも内観することが許されているのが国会議事堂だ。国会議事堂は衆議院と参議院で見学可能時間が異なっていて、衆議院は平日以外も見学することができる。私たちが訪れたこの日は土曜日だったので修学旅行中の生徒たちは見当たらなかったが、小学生くらいの子どもを連れた家族や観光目的で地方から上京したと思われる老夫婦が大半だった。受付の人に尋ねたところ、普段の土曜日の見学者数と比較すると雨の日にしては多いと言っていた。平成最後の日に国会議事堂を見学する人が一定数存在することに驚いたが、最後の日だからこそ久しぶりに国権の最高機関を見ておきたいと思うのかもしれない。かくいう私たちも小学生の時の修学旅行以来、約15年ぶりにこの場所を訪れたが、本会議が行われる議場の中に入った瞬間や赤いじゅうたんを踏んで歩いている時は不思議と胸が高鳴り、昔に訪れた時の記憶を思い出した。一緒に見学した人々も写真を撮りながら、テレビで見たことがある光景だと興奮気味に話していた。

広い議場の中に入った見学者の人たちも興奮した様子で写真を撮っていた。

昭和初期に建てられたこの国会議事堂は平成の終わりの現在もなおひときわ目立つ外観だ。

 国会議事堂を出た後は皇居の様子を知るために半蔵門へ向かった。東京メトロ麹町駅から新宿通りをまっすぐ進むと突き当りが半蔵門だ。新宿通りは警察車両が走行し、警備員らしき人が車道に立っていた。歩道脇の街灯には国旗が掲揚されていて、今日が特別な一日であることを示している。半蔵門の前には警察車両が停まり、すぐ横にはいくつもの脚立と三脚付きカメラが準備されていた。半蔵門をくぐって皇居の中へ入る皇族や政府関係者の姿を収めようと報道関係者が待ち構えていたが、ちょうどこの時間は儀式の最中で、国の要人などは誰も通らず、報道陣もくつろいでいる雰囲気だった。このあたりであれば報道関係者以外にも皇居の様子が気になってやってくる一般の人たちが少しくらいいるのではと思っていたが、予想に反してそれらしき人々は見つけられなかった。半蔵門は普段から観光客が訪れる場所ではないからだろうか。そう思って、東京駅から徒歩圏内で行けるため観光スポットとしても人気な大手門へと移動した。

街灯に国旗が掲揚されている新宿通りは車や人通りも少なくて整然とした様子であった。

半蔵門の前でテレビ中継の準備をしているが、辺りは閑散としていた。

 小雨が降る中、大手門の前は傘を持った老若男女でいっぱいだった。皇族が門から出てくるわけでもないのに、人々は熱心に大手門を観察したり、記念撮影を行ったりしている。もしかして午後5時から始まる「退位礼正殿の儀」を待っているのかもしれないが、それまでにはまだ3時間以上も時間があった。彼らのほとんどは自分のスマートフォンを片手に持って自撮りをしたり、近くにいる人に頼んで写真を撮ってもらったりと、平成最後の日に皇居前広場へ訪れたことを写真に残そうとしていた。内堀通りを歩いて二重橋前まで来てみたが、この付近も相変わらずに混雑している。二重橋前は外国人観光客も多く、日本人と同じく、皇居や二重橋を背景に記念撮影をしていた。彼らは今日が平成最後の日だと知ったうえでこの場所に来ているのだろうか。二重橋周辺には国内外の報道陣の姿も見られ、ここへやってきた人々のインタビューなどをしていた。悪天候の中、様々な年齢層の人々が皇居に足を運んだことは、平成の最後に記憶に残ることをしておきたいという気持ちの表れだろうか。この特別な日に皇居へ来ることは政治思想や愛国心とは全く関係なく、本能的に皇居を見ておきたいと感じたからだと私は思う。右翼と左翼、天皇制の賛否などとは切り離して、平成の終わりを惜しみながら皇居を訪れる人々の光景は平成時代を象徴しているのかもしれない。

小雨にもかかわらず皇居前広場に多くの人が訪れていた。

一般人だけでなく報道陣も皇居前広場の様子を報道していた。

 最後に向かったのは東京の繁華街の代名詞である渋谷だ。渋谷は「渋谷PARCO」がオープンした昭和48年(1973年)ころから若者の街として発展し、平成に入ってからも街の姿は常に変化し続け、平成末期の今は再開発プロジェクトが進められている。平成最後の日である今日、渋谷の若者たちはどう過ごしているだろうか。もしかするとハロウィンの時のように大騒ぎしているのではないかと予想していたが、特別な雰囲気は醸し出しておらず、いつも通り雑多で活気がある街だ。ハチ公前広場にはたくさんの人が待ち合わせ場所として使っているため移動するにも一苦労し、スクランブル交差点には無数の人々が縦横無尽に行き交い、その光景を外国人旅行者が物珍しそうに撮影している。「バスケットボールストリート」では有名タピオカ店に行列待ちをするカップルや周囲を気にせずに横に広がって歩く男女グループなど、普段と同じ風景が見られた。午後5時から始まる退位礼正殿の儀は電光掲示板で生中継が行われるかもしれないと期待して、スクランブル交差点の前で30分ほど前から待っていたが、午後5時を回っても電光掲示板は何も変化しなかった。周囲の若者たちも儀式が始まったことなど気にも留めない様子で、友だちと待ち合わせるためにLINEで連絡を取り合っているばかりだった。cが始まる瞬間の渋谷を写そうと数組の報道関係者がカメラを構えて待っていたが、期待していた風景は撮れなかったようでそそくさと立ち去って行ったのが印象的だった。

普段の日と変わらない混み具合だった渋谷駅のハチ公前。外国人の姿も多く見られる。

退位の儀の直前には、スクランブル交差点のビジョンにカメラを向ける報道陣も現れた。

 夕方の時点ではいつもと変わらぬ様子だったが午後11時近くなると、駅前には徐々に人が集まり始めたことを友人宅のテレビを見て知った。私たちは早々に渋谷を後にして、友人たちと酒を飲みながら平成の終わりを語り合っているころ、改元にかかわるイベントが行われていないのにスクランブル交差点やバスケットボールストリートはごった返していたそうだ。そして、午前0時になるとテレビ各局は改元を祝う全国各地の状況をリポートした。渋谷駅前や東京スカイツリーの展望デッキ、大阪の道頓堀で自然発生したカウントダウン、元号をまたいで行われた結婚式、令和になって間もなく誕生した赤ちゃんなど、どれも新しい時代にふさわしい幸せなニュースばかりだ。天皇の崩御による改元となった昭和の終わりなど、これまでの改元は重大な事件のように動乱の中で時代が変わってきたのだと推測するが、この日を振り返ってみると平成の終わりは平和な雰囲気の中で静かに令和へ移り変わったという印象を受けた。この日はまるで平成という時代を象徴している雰囲気のように感じた。国中で祝福されてスタートした令和では、人々の生活と社会の情勢はどのように変化していくのだろうか。この時代がどんな風になるかは誰一人として正確に予測することはできないが、令和末期においてもさらなる次の時代をみんなで温かく迎えられるようになることを私たちは祈り、今月の記事の結びとしたい。

信号が青になれば、いつもと変わらぬ雑踏が現れるスクランブル交差点。

再開発が進む渋谷の街並み。今後はどんな街の姿に変わるのだろうか。

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