平成最後の1月(宗教)

 年が明けて平成最後の年である平成31年(2019年)が始まった。たった7日間で終わってしまった昭和64年(1989年)ほどではないが、 5月には平成時代が終わることを正月のテレビ放送で何度も耳にするので、また4カ月後には年明けが待っているような感覚に陥る。しかし、平成が終わること以上に、年明けは高名な寺社へ初詣に訪れる参拝者のニュースが例年同様に多く報道されていた。この時代でも寒い中にそれだけ多くの人がお参りに行くというのは面白い。東京都の明治神宮、神奈川県の川崎大師、千葉県の成田山新勝寺など人気の高い神社や寺院がたくさんの人出によって大混雑している様相は毎年放映されている。しかし、古くから日本に存在する神道や仏教とは全く関係ない宗教的行事にも国民が積極的に参加する点は、わが国固有の状況であり興味深い。正月には寺社へ初詣に行き、お盆には祖先の霊を祭るのに、ハロウィンやクリスマスでも騒ぐ日本人を見て、外国人たちは我々を理解しがたい存在と捉えているに違いない。海外では日本以上に多国籍化とグローバル化が進んでいる国は数多く存在するが、日本のように信者でもないのにさまざまな宗教行事の一部を切り取って、文化の一部に取り入れている国は珍しいのかもしれない。このわが国独特の宗教観が平成末期の今、街中でどのように垣間見られているのか知りたくなり、今月は宗教をテーマに記録していこうと思った。

都内には多種多様な人がいるためか、実はさまざまな宗教施設が存在している。

新年をしばらく過ぎても神社内では参拝者が多く見られる。訪れる人々はどんなことをしているのだろう。

 私たちはまず明治神宮へ足を運んだ。明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社で、創建されたのは意外にも新しく大正9年(1920年)だ。原宿駅から徒歩で行ける好立地であるためか初詣の参拝者が日本一訪れるそうだ。私たちは参拝者が落ち着いた頃を見計らって1月末に訪れたが、予想に反して参拝者はまだ十分すぎるほど残っていた。原宿駅を出て、すぐの原宿口から広大な敷地の中に入ると、参道には数えきれないほどの菰樽1が置かれているのが目に留まった。百を優に超える菰樽の迫力に驚く参拝者が写真を撮っている。参道を通り抜けて拝殿の前まで来ると、明治神宮が他の神社と少し異なることに気が付いた。それは参拝者のうちお年寄りがかなり少なく、若者や外国人の姿が相当目立っていることだ。彼らは厳粛な面持ちで初詣をしている様子ではなく、和気あいあいとした雰囲気で友人や恋人と一緒にイベントを体験しているようだった。私たちが訪れた際も、たまたま遭遇した神前挙式の様子を通りがかりの人々が写真を何枚も撮影したり、お守りや御朱印2のために寒空の中で行列を作って並んだりしている光景を見かけた。初詣とは1年間の平穏無事を神に祈る行事だが、現在は多くの人々にとっておめでたい正月に乗じて仲間と観光気分でムードを体験できるイベントと化しているのかもしれない。神社へ参拝して、お守りや御朱印を喜々として持ち帰る参拝者がたくさんいて、そういった人々が昨今の神社巡りを盛り立てているという話も聞く。かつての神社参拝の形と比べると、行楽気分で参拝することは軽薄かもしれないが、今の日本人に適した信仰形態を明治神宮では記録することができたと思う。

拝殿の前でお祈りをする参拝客。

御朱印をもらう受付には行列ができていた。

神社の中で鎮座100年記念事業のための基金を募っていた。

無数に積まれた菰樽を珍しそうに眺める人々。

 明治神宮の次に私たちが向かった先は代々木上原だ。インターネットでイスラム教に関連する施設を検索して、最も知名度の高そうな建物が代々木上原にあるようなのでやって来たが、住宅地とおしゃれな飲食店が混ざり合うこの街にイスラム風の建物が本当に存在するのか半信半疑だった。代々木上原駅を出て井の頭通りを進むと、白い外壁と高い塔が目を引く建物が急に姿を現す。隣はごく普通のマンションのようで、周囲から明らかに浮いているこの白い建物が日本最大のイスラム寺院「東京ジャーミイ」だ。東京ジャーミイはロシア革命時、ロシア帝国に住んでいたイスラム教徒たちが日本に移住してきたことがきっかけで建設された「東京回教学院」が前身である。このモスクの礼拝者はイスラム教徒が中心だが、信徒以外の人も自由に訪問することが可能だ。2階の階段を上り礼拝場の前にたどり着くと、入り口には靴を脱ぐこと、ハーフパンツの着用禁止、女性はスカーフ着用など服装に関する規則が細かく定められていて、スカーフを持っていない人への貸し出しも行っている。礼拝場の中に入ると場内全体が白い壁で囲われていて、かなり広々とした神聖な空間に圧倒される。上を見上げると巨大なシャンデリアがつるされていて、ドーム型の天井はアラベスクと思われるイスラム様式の幾何学文様だ。ドームを支えているアーチとこのアラベスクがイスラム建築の大きな特徴で、異国情緒あふれる光景を眺めているとイスラム圏に迷い込んだ気がしてくる。壁に付いているたくさんの窓はステンドグラスで作られていて、うっすらと光が差し込む光景はどこか神々しい。礼拝場内では座って祈りをささげている信徒や、「ウラマ」3らしき人と10人ほどの信徒が話し込んでいて、この静ひつな空間にいるだけで信者ではない私たちでも厳かな気持ちになり、自然と背筋を伸ばしてしまう。この日、私たちの他に礼拝場を見学していた日本人は10人弱で、みんなイスラム教独特の空気を感じているように見えた。神社へ参拝に訪れるような感覚とはまた違って、異文化体験の場に訪れているように感じた。1階はトルコ文化センターとなっていて、「ビジャブ」4で頭を覆った信者の女性たちだけでなく、一般の人も見学していた。イスラム教徒の女性は全身を覆うことを「クルアーン」5で命じられていて、彼女たちはイスラム世界から遠く離れた日本でもこの命令を忠実に守っていた。この数人の教徒に出会っただけで日本人の信仰心とは随分と異なり、非常に信心深い信者たちであることがよく分かる。トルコ文化センターの中にいる一般人は若いカップルや女性グループたちで、トルコ紅茶を飲んだり、スカーフやコースターなどトルコ土産を見たりしていた。また、イスラム教に関する書籍やトルコの写真も充実していて、奥にはクルアーン学習プログラムを行う多目的ホールまで存在した。神聖な空気に支配されていた2階の礼拝場と比べて、1階のトルコ文化センターは観光客が集う穏やかな雰囲気で、お土産や写真を通じてイスラム教の魅力を来訪者に伝えることを主目的としているのだろう。私たち日本人にはなじみの深い宗教とは言えないが、まずイスラム教に関心を持ってもらうことを主軸にしている東京ジャーミイの存在は日本国内におけるイスラム教の発展につながると感じた。礼拝場を出て、出口に置いてあった無料の分厚い「イスラームQ&A」を私たち2人ともいただいて家で読んでみようと思った。自分にとって身近ではないイスラム教だが、宗教に興味を持つきっかけとは案外、こんな風に偶然的な出来事なのかもしれない。

閑静な住宅街の中に位置する東京ジャーミイの入り口には「見学はご自由に」と横断幕が掲げられていた。

礼拝場の中には信徒と思われる方が静かに祈りをささげていた。

 イスラム教の次はキリスト教に深くかかわる「東京復活大聖堂」へ向かった。東京復活大聖堂という名称は聞き覚えのない場所だが、通称である「ニコライ堂」といえば知っている人が多いのではないだろうか。ニコライ堂は明治24年(1891年)に落成した正教会の大聖堂である。正教会とは「ハリストス」に始まる初代協会の信仰を今日に至るまで正しく継承してきた教会のことで、ニコライ堂は日本正教会の中で最大の大聖堂だ。御茶ノ水駅聖橋口を出ると青緑色のドームが目に留まり、それがニコライ堂だとすぐに分かる。東京ジャーミイの高い塔と同じように、青緑色の丸いドームがこの聖堂のシンボルである。聖堂に近付くと外壁はシンプルな白だが、入り口上の壁にはキリストが描かれていたり、十字架が施されていたりとキリスト教の建物であることを表している。十字架をよく見ると、通常の形状とは異なって横棒が2本多いことに気が付いた。この十字架は八端十字と呼ばれ、スラブ系の正教会で使われている。中に入ると、またもや東京ジャーミイと同じように内部の撮影は禁止されていた。イスラム教やロシア正教会の建物内は写真撮影を禁止していることが多いようで、帰宅後にインターネットで検索しても聖堂内部の写真がほとんど見つからなかった。インターネットが全世界に普及しても、実際にその場所へ赴かなければ見ることができない建物はそう多くなく、もしかしたらこういった宗教施設くらいかもしれない。聖堂内は自由に歩き回れる範囲が定められていて、金色の壇上の奥は信者さえ立ち入ることができず聖人だけの領域だそうだ。また、係員たちが10分に1回程度、観光客に聖堂の説明もしていたが、金の壇上の手前で行う数分だけの説明であり、壇上の奥で詳しいことを聞けないのが残念だ。聖堂の中には観光バスでやって来た老夫婦やデート中のカップルもいたが、見ることができるものが少ないことと、内部がかなり冷え込んでいるためそそくさと帰ってしまっていた。私たちも係員からもらった巨大なろうそくに火をつけて、説明を聞いた後は外に出てしまった。ニコライ堂はキリスト教の布教よりも信者の祈りを優先しているため観光客の拝観対応にはそれほど力を込めていないのかもしれない。しかし、私語も自重するこの空間の特別な雰囲気は、他の場所ではなかなか味わうことができないだろう。

御茶ノ水駅から歩いてすぐ近くにあるニコライ堂。オフィスビルが多い中でひときわ目を引く外観だ。

観光コースで組み込まれているためか、絶えず観光客が出入りしていた。

 今月最後に訪れたのは仏教関連施設として選んだ護国寺である。護国寺は真言宗豊山派のお寺で元和元年(1681年)に5代将軍徳川綱吉の母である桂昌院の発願により創建された。火災や戦災で多くの堂を失ったが、観音堂は元禄以来、姿を変えていないそうだ。私たちが護国寺に到着したのは午後3時を回ったころであり、参拝客は10人ほどだった。みんな初詣ではなく、近所に住む人々が散歩がてら来たように見え、お参りを済ませるとすぐに帰ってしまっている様子だったが、私たちは観音堂の中に入ってみた。広い観音堂の内部は人が数人しかいないため寒々としていて、静寂を保っている。ゆっくりと中を見渡すと中央にお坊さんが座ってお経を唱えていた。静かではあるが、なぜかはっきりと聞こえる声のお経で私たちは少しの間、聞き入っていた。観音堂の中に飾られている仏具はどれも金色で荘厳だ。ニコライ堂と同じく金の装飾が多く見られるが、護国寺がさらに華麗なのは宗教性の違いだからなのだろうか。お堂の奥へ行くと数十体の仏像が安置されていた。護国寺でも写真撮影ができないため言葉でしか伝えることができないが、数十体が並ぶ仏像群は壮観で、ずっと眺めていたくなるような妙味があった。仏像の知識は持ち合わせていなくても魅入ってしまう謎の力を感じるのは、私たち日本人にとって仏教が身近な宗教だからなのかもしれない。日本人の葬儀は仏教式が一般的であり、命日や法事でお墓参りにお寺へ行く人は多い。また、中学生や高校生の頃に修学旅行で一度は京都、奈良、鎌倉、日光などのお寺を巡った経験がある人がほとんどだろう。私たち日本人は幼少の頃からこうした仏教体験をしてきたため、知識は乏しくても親しみを感じるのかもしれない。日が落ちてだんだんと暗くなる境内を見て、護国寺には初めて来たはずなのに不思議と懐かしく思うのは、日本人の心にはみな、お寺への愛着が多かれ少なかれ存在するからなのかもしれない。

護国寺観音堂の外観。誰でも中に立ち入れるようになっている。

初詣というよりも気ままな散策として訪れている人が多いように見受けられた。

観音堂の中ではお坊さんがお経を唱えていた。

護国寺の敷地内にある墓地。

 年明け最初である今月は、宗教をテーマとして四つの宗教施設へ足を運び、それぞれの宗教が持つ特異な雰囲気を肌で感じることができた。本やテレビで眺めるのではなく施設に直接赴くことで、信者がお祈りやお参りをする姿を記録することができて、さらに信者ではない私たちもわずかではあるが臨場感を味わうことができたのは貴重な経験であった。宗教とはほとんどの日本人にとって身近な存在ではないかもしれないが、信者以外の人々にもきちんと門戸が開かれていて、自分から近付いて行けば色んな体験ができることを知った。かつて宗教とは人間の生活と濃密な関係であり、冠婚葬祭においては特に大きな役割を果たしていた。しかし、平成末期である現在は結婚式や葬儀の簡略化、檀家や信者数の減少など宗教の衰退によって私たちの身の回りから宗教が消えつつある時代である。日常と宗教の関わりが低下したことで宗教的な厳格なタブーや風習が薄れていき、形式ばらない砕けた宗教的行動だけが残ったのだろう。このカジュアルな宗教的行動は、四つの宗教施設で記録した観光客による宗教体験においてもよく見られた。彼らは明治神宮で寒空の中を並んで御朱印をもらい、東京ジャーミイでは日本で珍しいトルコ紅茶を飲んでいた。平成末期の人々は宗教行事に対する義務意識はほとんど持っておらず、戒律や禁忌には関心を示さない傾向が強いが、四季の行事と密接に関わる宗教的イベントには気楽に参加するのである。人々が宗教に対して、以前よりもずっと手軽に接することが可能な現況を四つの施設で記録することができた。

願いを書いて奉納する絵馬も信仰と結び付いているが、多くの人々は意識せずに行っているのではないだろうか。

平成の終わりにおいて、宗教施設はどこも観光客と共存していることに気付いた。

 

脚注

  1. 菰を巻いた酒樽のこと。菰とはマコモという植物を編んで作ったむしろのこと。菰にはお酒の銘柄や特徴を表す絵を描くので見ているだけで楽しめる。
  2. 神社や寺院を参拝した人向けに押される印のこと。近年、御朱印集めがブームとなっているが、転売や代行サービスといった問題も発生している。
  3. イスラム教の学者や宗教指導者層のこと。信徒たちと静かに話していた。
  4. イスラム教徒の女性がかぶるスカーフのこと。
  5. 唯一神アッラーから預言者ムハンマドに啓示された時のままの形で今日まで維持されてきた神聖な書のこと。

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